【調査会NEWS3556】(R4.2.1)
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<小倉事件 (日本における外事事件の歴史16)>
調査会特別調査班
今回ご紹介するのは、「小倉事件」と称される事件で、昭和36(1961)年に福岡県の小倉市(現北九州市小倉南・北区)で北朝鮮との間で密出入国をしていた在日コリアン金乙星が逮捕されたというものですが、当時報道された新聞記事では「対南工作の大物」という表現で、逮捕された事実を公表しているものの、実際にどのような対南工作を行ったのかについての内容は報道されていません。東京法令出版の「戦後の外事事件」や恵谷治氏著書の「対日謀略白書」などにも掲載されていません。
この事件内容を初めて目にしたのは、東京法令出版の『諜報事件判決集』内に「小倉事件」として掲載があったからで、事件の概要について書籍では「この事件は、在日朝鮮人が北朝鮮に密出国してスパイ教育を受けた後、対韓工作の任務を帯びて再び日本に潜入していた事件である。在日朝鮮人であった金乙星は、昭和31年、日本からひそかに北朝鮮に脱出し、昭和36年4月ごろ我が国に潜入し、福岡県下を活動拠点として対韓工作、及び情報収集活動を行っていた」と述べています。
その後、ネットで金乙星について検索すると自伝的な著書『アボジの履歴書』(神戸学生青年センター出版部)を出版していることが判り、取り寄せて『諜報事件判決集』と照合しながら読んでみました。読み進めていくと朝鮮戦争については「米軍が祖国へ侵略戦争」との表記もあり、思想的なスタンスが理解できます。また、当然といえば当然かもしれませんが自身の活動歴において具体的な対南工作と判断する内容は記述されていません。しかし、北朝鮮への密出国の経緯や日本への密入国の経緯などを知るにはこの著書しかなく、今回はこの内容を基に「小倉事件」とされる概要と金乙星の生立ちなどについて書いてみたいと思います。
大正末期に朝鮮で生まれた金乙星は、間もなくして祖父と両親に連れられ日本に渡ってきました。渡日後、両親たちは京都府や兵庫県下の工事現場を渡り歩き、昭和5(1930)年ごろ、兵庫県氷上郡武田村(現丹波市)に定着します。昭和18(1943)年、金乙星は三菱電機神戸工場の徴用工を経て陸軍に志願し、中国大陸に派遣され幾度かの実戦を経たのち昭和20(1945)年8月終戦を迎え、その後中国軍によって釜山に送還されました。
金乙星は日本にいる家族に会いたいため、日本への渡航を希望しますが朝鮮人ということで渡航は叶いません。「正規の手段では日本に渡れない」と判断した金は、密航で日本に渡る決心をして昭和21(1946)年4月、慶尚南道の馬山港から出港する密航船に乗って福岡県の海岸に上陸しました。
中国大陸に行っている間に両親は亡くなっていましたが、金乙星は兵庫県に戻り姉や妹、弟と再会し、姉の夫の関係で丹波の篠山(現丹波篠山市)に移り住みヤミ屋で生計を立てるようになります。また当時、姉の夫が朝鮮人連盟(朝連・朝鮮総連の前身)の副支部長をしていたことから、金乙星は朝連の集会にも参加するようになり、その後、現在の尼崎市にあった朝連の「青年学校」に入ります。そして青年学校を終えた後、東京・狛江に在った「朝連中央高等学院」に進み、卒業後に同学院の教務部で働くことになります。また同時期に日本共産党にも入党しました。
『アボジの履歴書』では学院での勤務時代に、金乙星は金炳植と出会っています。金炳植は後に朝鮮総聯の第一副議長にまで昇り、日本国内での工作活動の拠点ともなったユニバース・トレイディング社を設立し、工作員・高大基(特定失踪者・渡辺秀子さんの夫でもあり、警察断定拉致被害者高敬美・剛姉弟の父親)などを使って日本国内で工作活動をさせていた人物です。「金炳植は最初から態度が横柄で非常に生意気な男だった…」ということで、「つかみ合いの大喧嘩になった…」と記述されており、その後の関係も悪かった旨の記述があります。
学院での仕事と合わせ、居住を始めた狛江市(当時は村)での共産党細胞活動も始めた金乙星は、三多摩地区委員会の活動も行い、昭和22(1947)年5月ごろ、三多摩地区委員会の常任地区委員にも選出され職業活動家としての道を歩み始めます。その後昭和23(1948)年末、金は日本共産党兵庫県委員会へ配置転換で異動しましたが、翌24年9月に団体等規制令発布により朝鮮人連盟と在日本朝鮮民主青年同盟(朝鮮民青)が強制的に解散させられる事態となり、共産党兵庫県委員会からの指示で一時的に県委員会を離れ、淡路島の党地区委員長として赴任します。その時期、兵庫県の朝鮮民青委員長の紹介で女性同盟の活動家と結婚しましたが約2年で別れます。
金乙星は淡路から滋賀県委員会を経て朝鮮戦争勃発直後の昭和25(1950)年夏、神戸市委員会の責任者として異動します。ここで朝鮮青年の祖国防衛隊(非合法組織)の集会で講演する依頼を受け、講演後に警官隊によって逮捕され、約3週間拘束されたこともあったそうです。また当時、神戸港が朝鮮戦争でのアメリカ軍に対する軍需物資輸送の兵站基地にもなっていたことから、港湾労働者として神戸港に潜り込んだようですが、兵器などの直接戦争に関係する物資の荷役にはMP(米軍の憲兵)が絶えず目を光らせていたということで、結局何もできなかったようです。
昭和26(1951)年の末、金乙星は兵庫県委員会の委員長に選出されます。その2年後の昭和28(1953)年、当時のアパート隣室に住んでいた日本人女性Tと結婚しました。翌29(1954)年の秋、金は中国地方委員会への異動を命じられ、事務所が置かれていた広島に赴任します。
昭和30(1955)年7月、日本共産党の第6回全国協議会(6全協)が開催され、これまで党が主導してきた武力闘争を180度転換して自己批判し、平和路線的な指導体制になりますが、その約2カ月前には在日朝鮮人運動を主導してきた在日朝鮮統一民主戦線が解散し、在日朝鮮人総連合会(朝鮮総聯)が結成されました。その直後、日本共産党民族対策部の解消が行われ、日本共産党に入党していた在日朝鮮人党員は一斉に党籍を離脱することになりました。
この後、民族対策部の責任者などから解消に伴う事後処理(借金問題)への手助けを求められ、商工人らの協力を得てある程度の処理を行いますが、残った問題はこの民族対策部の幹部メンバーたちの処遇でした。そこで幹部メンバーは、朝鮮労働党から直接指導を受けるため、北朝鮮への密航を計画します。
相談を受けた金乙星は知人に頼み、昭和30(1955)年10月頃、鳥取県の白兎海岸から幹部2名と数人の刑事事件の逃亡者などを乗せて出航させる予定でしたが、警察に情報が洩れて出航予定の何人かが尾行されたりしたため、計画は挫折します。結局、同じ船に刑事事件の逃亡者などを乗せるのは危険だということで約1か月後、今度は鳥取県の境港から幹部2名を北朝鮮に向けて出航させました。
約3か月後、北朝鮮に渡った幹部の1名が帰国し、北朝鮮本国から民族対策部の責任者だったPに「すぐ帰国するように」との指示があったことを伝えました。結局、この件が基で昭和31(1956)年2月初め、金乙星は日本人妻Tを残したまま、民族対策部責任者のPらとともに愛媛県の新居浜港から韓国の貿易船に偽装した船で北朝鮮に向けて密出国し、3日後には咸鏡南道の新浦港に着きました。
その後平壌に移動し、2、3か月後には日本に戻る予定で朝鮮労働党の歴史等について講義を受けながら学習していましたが、6月から8月にかけて朝鮮労働党内で発生した8月宗派事件と呼ばれるクーデター未遂事件が発生したことから日本へ戻る予定が延び、金乙星は朝鮮労働党の中で戦後日本の共産党活動や労働運動、大衆闘争を総括する仕事に就き日本に戻る機会を待っていました。
しかし、日本では日本共産党による「人民艦隊事件」や戦後、中国に残留していた日本人を日本赤十字社が引き揚げさせる帰国船・白山丸に日本共産党の関係者約60名が紛れて密入国した「白山丸事件」などが起きた関係で、更に帰国が難しくなりました。そのようなときに金乙星は朝鮮労働党から高級党学校への入学を薦められ、寄宿舎に入っての学校生活を送ることになります。
金乙星が日本から密出国して3年後の昭和34(1959)年8月頃、妻Tが日本から密出国して北朝鮮に渡ってきました(裁判記録では「…Tは昭和33年頃、Hなる名義を用いて平壌から日本の父宛に手紙を寄越すようになった…」旨の記述があり『アボジの履歴書』とは違いがある)。これは3年前、金乙星と一緒に北朝鮮に来た民族対策部責任者Pの妻が働きかけて一緒に日本を密出国してきたということでしたが、金には予想外の出来事だったようです。
金乙星は昭和35(1960)年半ばに高級党学校を卒業すると、日本に戻る準備を始め、北京経由で外国の貨物船に便乗して戻る計画を立てます。これには日中友好商社の人物が協力したといいますが、日本に戻る金とは反対に朝鮮労働党では、妻Tに対し「折角共和国に来たのだから大学で勉強してはどうか?」と勧めたようで、Tはこれを受け入れ、北朝鮮に残って大学に入ることを選択したといいます。これは北朝鮮が得意な人質政策ともいえるでしょう。そして昭和36(1951)年の半ば頃、金乙星は日本に密入国で戻ってきたようですが、これも裁判記録では「昭和35年9月頃から、同36年7月中旬頃迄の間に、朝鮮から本邦に上陸し…」となっており、正確な時期については把握できません。
そして昭和36(1961)年11月7日に北九州で小倉警察署員によって検挙されるまで、日本に戻った金乙星が具体的に何をしていたのかは報道記事や裁判記録から読み取ることは出来ません。『諜報事件判決集』に書かれている「福岡県下を活動拠点として対韓工作、及び情報収集活動を行っていた」という記述からすれば、警察当局は何らかの具体的な事実を把握していたとも思われます。
その後金乙星は裁判を受け昭和39(1964)年7月10日、出入国管理令違反の罪で「懲役8か月、執行猶予3年」の刑を受けます。金はこれを不服として控訴し、棄却されると更に上告しますがこれも棄却され、昭和41(1966)年7月26日、刑が確定しました。最高裁での上告が棄却され有罪が確定した金は法務省入国管理局から強制国外退去の対象とされますが、条件付きの仮放免手続きを取り、収監を免れた後、特別在留許可を求めて保守系の代議士等の助けを借りて上告審の判決から13年後の昭和54(1979)年に特別在留許可が下りました。
この間の昭和48(1973)年、Kは平壌に残してきた妻Tの所在が不明なまま、在日コリアンのRと結婚し、2人の子供を授かりますが、約10年で離婚し、子供を引き取って育てることになります。一方、北朝鮮に残った日本人妻Tは、金乙星が日本へ戻った後も学校での勉強を続け、卒業後には中央放送委員会に勤務し、深夜の日本語放送でアナウンサーも務めていたということですが、ある時期から突然放送に出てこなくなり、所在不明となりました。平壌で正月に日本から北朝鮮に渡った人間が集まる酒席にTも参加していたことが原因で収容施設に送られたようです。
Tが所在不明となって約20年後の平成4(1992)年1月のはじめ、金乙星のもとに突然平壌から電話がかかってきました。相手はTとともに所在が不明となっていた元在日コリアンのAで、所在不明となった理由は話さずに平壌に戻れたことなどを告げ、Tが電話口に出ました。実に20年以上行方不明だったTでしたが、Tも所在不明になった理由は明らかにしなかったといいます。
その後、金乙星は妹を北朝鮮に渡航させTと面会させましたが、この時も所在不明なった理由については話さなかったそうです。金の妹がTから預かってきた手紙には「金成日同志の配慮で平壌に帰ってきた…」旨と「中央放送委員に復帰して対日本関係の放送事業に携わっている…」内容が書かれていたとのことですが、そのTは平成7(1995)年8月1日、平壌で病死したとのことでした。
金乙星は、出入国管理令違反容疑で逮捕され、約3か月後に保釈されたものの、仕事については過去に因縁があった金炳植からいろいろな妨害があったといいます。その金炳植も昭和47(1972)年10月、南北赤十字会談に合わせ日本からの代表団の一員として北朝鮮に渡りますが滞在先の平壌で「反党反革命宗派分子」として拘束され失脚します(平成5年12月、金日成の実弟金英柱と共に国家副主席に任命され、復権を果たす)。金乙星はその後、不動産会社で働いた後、自身で不動産、パチンコ店、飲食業などを行う会社を興し、日本に定着しました。
以上が「小倉事件」の概要と、検挙された金乙星の経歴についての内容です。『アボジの履歴書』を読み進めると、2番目の妻となった日本人Tも夫を追いかけて北朝鮮に行ったために二度と日本に帰国することが叶わず、帰還事業で北朝鮮に渡った日本人妻の皆さんと同じような運命に曝されたような気がします。金乙星による密出国や密入国に係る「小倉事件」ですが、その背景には北朝鮮によって違った道を歩むことになった日本人女性のドラマがあったことを気付かされる結果となりました。
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